経済改革以前
NZは1947年に英国植民地から独立を果たし、英連邦に加盟した。『英国の海外農園』として歴史的に発展を遂げてきたNZ経済は、生産性の高い牧畜農業を基幹産業とし、食肉、酪農品、羊毛などの農畜産物を輸出することに外貨獲得を依存する経済構造を形成してきた。そうした経済構造は、1970年代以前においては、英国という安定した市場条件と農業生産の順調な発展に恵まれて、国民1人当たりのGDPが世界の上位に入る豊かな国民所得をもたらし、そのことをもとに世界でも先進的な『福祉国家』の建設が推進された。
しかし、1973年の英国のヨーロッパ経済共同体(EEC)加盟により新たな輸出先の開拓と多角化を余儀なくされただけでなく、同年の石油危機に端を発する世界的な不況が、農産物を含む1次産品の国際価格を下落されたことにより、輸出はされに伸び悩むこととなった。これに加えて、石油や工業製品などの輸出品価格が高騰したことによって、国際収支は大幅な赤字を占めることになり、1974年の経常収支の赤字額はGDP14%にまで達した。こうした事態に対し、当時のマルドゥーン国民党政権(1975年12月〜1984年7月)は、国際収支の改善と完全雇用の維持のための方策として、輸出の量的拡大をめざす農業へのさまざまな生活奨励策と、輸出代替のためのエネルギー部門を中心とした大プロジェクトを推進する”Think
Big Project”を実施し、政府は経済への大幅な介入を強めている。
しかし、国際的な農産物の過剰生産と価格低迷の中で、生産奨励政策は貿易黒字の拡大にはつながらず、むしろ財政赤字を蓄積される結果となった。他方、輸出代替政策も製造業が立地するに足る国内市場を有しないことから、非効率的な産業を保護、温存する結果となり、財政赤字の累積をますます助成する要因となった。
しかも、不足する資金は専ら海外からの借入れによって補われたため、公的責務は激増し、1984年には、公的責務の対GDP比は71%にも達した。また、経済刺激的な財政政策に伴う高インフレが進行しCPI上昇率は1979年に18.4%を記録するなど軒並み10%以上に達し、1982年には賃金・物価・金利の凍結を余儀なくされた。GDPの実質伸び率も1982年の3.3%以外は、1980年から1983年にかけて年1%台の水準であり、一人当たりのGDPも1975年のOECD平均の97%から1985年には失業率は5.6%に上昇した。以上のように、NZ経済は極度に悪化しており、行政・経済改革に着手せざるを得ない状況になっていた。
行政・経済改革の実施
1984年に誕生したロンギ第4次労働政権は、これまでの政府の経済介入政策のいわば反動として、徹底した市場原理重視の経済自由化政策を推進した。1990年までの2期6年間の間に、為替の変動相場制への移行など金融市場の規制緩和、準備銀行の政府からの独立とインフレ抑制を最優先とする金融政策の推進、大型間接税(GST)の導入などによる税制改革、農場などへの産業補助金の全廃、肥大化した政府サービス部門の国有企業化とさらには民営化など、徹底した経済自由化政策を断行した。まだ、1983年から開始されたオーストラリアとの経済改革は、英国のサッチャー政権が目指したものと基本的に同じであったが、その徹底性においては英国をはるかに上回っていた。
こうした経済改革の流れは、1990年に政権を奪回し、1993年に僅差ながら再選を果たしたボルジャー国民党政権に引き継がれ、労働党政権が着手し得なかった労働市場改革と福祉改革が断行された。1991年5月からは新たに雇用契約法が施行され、労働組合への強制加入制が撤廃されるとともに、それまでの産業別・職能別の労働組合を介した硬直的な労使関係は、企業別・職場別の自由な賃金交渉へと大きく変化することになった。まだ、財政均衡のための歳出削減策として、それまで政府が全額負担していた教育・医療・年金などの福祉制度に受益者負担が導入されるとともに、さまざまな形で競争原理と企業管理方式が導入された。
労働市場改革は、1980年代以降の自由化政策の断行によって高まりつつあった失業率を背景に、労働者・労働組合の強い反発を招いた。また福祉改革についても、国民の反感を買い、当初激しい抵抗を受けることになった。しかし、経済改革の結果、労働市場の柔軟性が高まり、インフレ抑制が進んだことで国内の生産コストが下がり、国際競争力も回復した。また、為替管理をはじめとする政府の規制が撤廃され、不動産業、林業、観光業などの分野への海外からの直接投資が拡大したこともあり、1992年を底にNZ経済は輸出主導による景気回復を果たした。1994年は経済成長率が6%とOECD諸国の中でも最高の伸びとなり、1994/1995年度当初の予算で財政黒字を計上した。NZは、『行政・経済改革の成果』として内外に評価される長期高度成長を果たした。
その後も経済情勢は安定して推移し、1996年に行われたMMPによる最初の選挙の結果、連立を余儀なくされた国民党連立政権は、国有資産の売却、所得税減税の実施、財政支出の抑制、関税の段階的引き下げなどを進めたが、1998年に酪農品などの輸出市場として重要性が高まりつつあったアジア地域の経済危機が発生し、さらに1997年から2年連で干ばつが発生したことから、経済成長は大きく減速し、1998年にはマイナス成長となった。しかし、アジア危機と天候の回復を受け、1998年の後半から経済は急速な立ち直りを見せている。